上尾市大字平方は、中山道の上尾宿から城下町・川越に向かう、古くからの街道沿いに立地する。この街道は大宮台地上を通過して、荒川・入間川を渡り、川越に向かうが、平方はこの荒川の大宮台地際に位置する。現在、荒川は開平橋で渡るが、江戸時代には船渡で渡河していた。また、江戸時代初頭から、平方河岸が整備され、近郷から江戸に年貢米を含む様々な荷物が集まり賑わったといわれる。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代には「平方宿」と呼ばれ、現在の埼葛地方から上尾・桶川を通じて川越・多摩地域に抜ける重要な運送の中継地点となっていたという。
 大字平方は大きく南・下宿・上宿・新田の4地区に分かれる。このうち下宿・上宿は、川越に向かう街道沿いの集落で、街並みを形成し、特に平方河岸が賑わいを見せた大正時代までは、活況を呈していた。一方、南・新田は、畑作主体の農村であった。
 平方のどろいんきょの行われる平方上宿は、この街道の荒川に接する地域であり、平方河岸に関係する家も多かったという。

 どろいんきょは、上尾市大字平方の上宿地区に鎮座する八枝神社の祇園祭の中で行われる行事である。八枝神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたが、明治初年に改称し現在に至っている。明治初年に著された『武蔵国郡村誌』では、八枝神社の祭日を7月14日としている。
 明治時代、八枝神社の祇園祭は、現在の大字平方の範囲にあたる、南・下宿・上宿・新田の4地区合同で行われてきた。神輿がこの4地区を巡回し、その中でどろいんきょが行われてきた。「八枝神社日記」の明治42年6月24日の項には、「隠居輿」の修繕に関する記述があり、このころには既にどろいんきょが行われていたことが推察される。
 祇園祭で、どろいんきょを含む神輿渡御を行うには、4地区の合意が必要であった。合意が得られた年のみ神輿の渡御ができたのである。大正12年にどろいんきょを含む神輿渡御を実施したが、以降、これを最後に4地区合同での神輿渡御は行われなくなった。その後、祇園祭は4地区それぞれで神輿渡御が行われ、どろいんきょも各地区で小規模に行われる程度であった。
 こうした中、上宿地区では、昭和48年に祇園祭の中でどろいんきょを本格的に復活した。どろいんきょは、昭和57年には上尾市指定無形民俗文化財、平成23年には「平方祇園祭のどろいんきょ行事」として埼玉県指定無形民俗文化財に指定され、現在に至っている。